ManCityを追うものは一兎を得ず

水色と白

マンチェスターシティとレアル・マドリー。時々それ以外

MENU

【書評】集中力はいらない/森博嗣

こんにちは。

tadashiです。

 

今日も書評。

Kindleは片手で読めるので素晴らしい。

SB新書から出ている森博嗣の著書「集中力はいらない」を3日ほどで読み切ることができたので忘れないうちに感想を書こうと思う。

 

 

 

 

読書感想文というのが昔から苦手だった。

「感想」というのはどういう形態のものか理解ができないあんまり頭の良くない子供だったからだ。

だから、あらすじで原稿用紙の7割を埋めてしまい「楽しかった」「良かった」「面白かった」の言葉で閉じていくスタイルが、私の読書感想文であった。当然、褒められたことはない。

読書も苦手、読書感想文も苦手。そんな集中力が昔からなかった。

 

というこで、本題。

これは森博嗣のエッセイだ。

 

集中力が大事。

集中して取り組めば成功できる。

 

なんてよく聞いたセリフを真っ向から否定していく内容。

読んでいていちいちうなずいてしまった。

 

というのも僕には集中力がない

小学生の頃からサッカーをやっていたけど、ことあるごとに「集中しろ!」と怒られていたことを思い出す。

あのときは「自分は集中してないんだ!集中しないと…!」と思っていた。

今となっては、あれはあれで集中していた。それをこの本を読んで再確認することができた。

 

 

以下、本書における私が印象的に感じた部分引用していきたいと思う。

※太字は作中の小タイトル

 

発想は集中からは生まれない

発想は、集中している時間には生まれないということである。

僕は土木工学で大学院まで進み、修士課程を卒業したが、そこでは修論のテーマがあって、期待される成果があって、それに基づいて実験及び計測手法を決めていく。だいたいが、実験や計測の結果だけをただ持ってきてもいまいちそれが何を示しているか、この結果から何が得られるかはわからない。

これで良かったのか?もしかしてやり直しか?

ということも含めてちょっとの間考える。指導教官(研究室の教授)にも見せながら。

当たり前だけど的確に次の指針を示すのは教授だ。毎日10人以上の学生を相手に研究のディッスカッションをしながら学部生に授業を行い、自らの論文作成や論文の査読を行っていながらも、その日に持ってきた僕の成果に対して的確な指示を入れる。

これはまさに集中していない時間に発想が生まれていることなんだと思う。

色々なことに頭を次々切り替え、そのどこかに別の答えを導き出すヒントが隠されていたりする。

きっと教授は、経験とヒントで答えへの道筋を描いていたんだと思う。

 

大学院に進んで良かったと思うのは、社会に出る前に大人たちとフラットな視点で議論ができたこと。

こう考えたというところは研究をしている自分にしか答えられない。それをもとに教授たちは、次を考える。

毎月、研究の途中結果報告会があったが、緊張はするけど、自分の話を大人たちが真剣に聞いているのはわりと楽しかった。

 

 

仕事に没入するスイッチはあるか

嫌々やっているから、コンスタントにできるわけです。楽しかったら、もっとのめり込んでしまい、もっと時間を使って集中しすぎてしまうでしょう。そうなると、きっと上手くいかないことが出てくると思います。いらいらするでしょうし、躰を壊すかもしれないし、また、やりすぎて厭きてしまって、もっと嫌になるかもしれませんね

現在、俗に言うサラリーマンとして働いて10年目。1、2年で次々と異動している僕はやりたかった仕事、やってみて楽しくなった仕事、興味のない仕事、やってみたらつまらなかった仕事と様々に経験年数のわりに体験することができた。

この本で言われている通り“つまらない仕事”、“興味のない仕事”では早く終わらせよう、あまり深追いしないようにしようと淡々と進めていて、“やりたかった仕事”、“楽しくなった仕事”は時間を気にしなかった。やれぱやるほど課題が見えて、一生終わらない気さえした。

例えばつまらない仕事は、“だれにでもできる事務作業”、興味のない仕事は、“構造物ではないものの補修工事”、やりたかった仕事は、“橋梁などの構造物”、楽しくなった仕事は“企画・計画関係”だった。

 

たぶんどんな仕事だって、仕事じゃなくたって、たくさんの課題があるはずなんだけど、突き詰めないからそこまで見えてこない。とにかく目の前のものをこなしておけばいいやと、ある意味これは「集中」という状態なのだと思う。効率を求め、簡単に済ませられる策を考える。本質から遠ざかろうとも。

好きなことはそうはいかない。ということが、森博嗣先生によって言語化されている。

そうそう!と手を打った。

 

 

文系は言葉に頼りすぎる

こういった発言は、「自分の役に立つことがすべてだ」という極めて集中した思考に基づいているだろう。自分や、自分の利益しか見えていない。

この文章はこのあとにこう続く。

「あなたはなんの役に立つんですか?」「役に立つこと以外に、価値はないのですか?」

 

これは仕事をしているときの自分がこうであるので反省しないといけないと思った。時間のない中、大量の業務をさばくために不要なものは排除したい。

仕方ないとは思いつつ、そのすべての行動に自分に絶対意味があることは難しい、いや、無理。

このゴールに対してはたぶん役に立たないかもしれないけど、どこかで役に立つのだろうというゆとりが必要かもしれない。

 

 

コンプレクスとどう向き合うか

コンプレクスというのは、誰もが持っているもので、裏を返せば、人間がそれぞれ違っていることの証です。

とても森博嗣らしい、森博嗣的に言うと我々が望んでいる森博嗣像を忠実に読み取ってくれた発言だと思う。

コンプレックスのない人間はいない。個性と同義としても良い。

 

「自分のコンプレックスはなんですか?」と言われたら身長とのっぺりした顔と意地が悪いことなんだけど、意地が悪いのは強みにもなったりし、身長と顔がコンプレックスだからこそそれ以外で何か目立つものがないといけないと思って色々とかんばれたりした。

コンプレックスは個性であると同時に、自分が他人とは違う自分を持っていることの証明にもなる。

 

〇〇がコンプレックスで…と言う人の大半は「そんなことないよ〜」と言ってもらいたいだけだから間違っても「そうだよね〜」と言ってはならないことを中学ぐらいで知れたのは良かった。

女性からの相談を受けるようになったのも、こういった相手が言われたいことを見抜けるようになったからだ。

話が変な方向に飛んだ。

 

 

効率化を図るには?

ずっとそんな単純作業ばかり続ければ、たしかに嫌になるでしょう。それは、同じゴールがまた設定されるようなものです。それに、もうさほど最適化もない、まったく同じルーチンになる。多くの仕事は、こういったものだと思います。これは、もう、もらえる賃金を想像して、そのお金で自分が何をするのかを想像するしか目新しいゴールはありません。

世の中の仕事には単純作業が多すぎる。

データの入力とか、数字の確認とか、そした単純作業の成れの果てが思考の停止。作業自体には何も意識はなく、この文章の最後のように“お金をもらえるから”やるだけになってしまう。

単純作業がこの世からなくなれば、多くの人が働く時間を減らしながら成果をあげられると思う。

 

ちなみに私の今の職場はこういった単純作業が多くて、考えてることは何も起きずに終わることだけ。効率化にもやはり限度がある。

ある意味で型にはめるだけなので楽といえば楽だが、残業になってしまったときに自分への後悔しかないのがもったいない。

 

 

 

人生をかけたテーマ

誰かに認めてもらわなくても、自分が自分を認められるようになります

これは私の考えとも非常によく似ている。

自分を愛せるのは自分だけ。自分を守れるのは自分だけ。

まあ、似たようなものだ。

 

承認欲求というものがある。だれかに見てほしい、認められたい、褒められたい、共感されたい。

その集まりが今のSNSで、SNSには承認欲求と金稼ぎと業者と暇人のバカしかいない。恐ろしい世界。

承認欲求の根底にあるのは“他者”に対するアピール。他者からどう思われるかが重要。自分がいくら良いと思っていようが、他社からの評価がなければ納得できない、不安になる。

例えば、女性が肌を露出し、際どい衣装の写真をアップしたり、男性がジムで鏡越しの筋肉を披露したり、プライベートの結婚式の様子とか、家族で行ったおいしいご飯とか、そのどれもがわざわざ人に見せるものでもないのに見せたがる。

 

女性でセカンドになる人や不倫、浮気相手になる人は総じて承認欲求が高く、そういった相手を多くつくる男性は承認欲求が高いのに欲求が満たされていない女性を見つけるのがうまい。

そういう人の相談に乗るときは、自分を守れるのは自分だけだし、自分をまず愛してみなさいと伝えていた。

今の自分を愛せますか?今後本当に愛する人に出会ったときに、この今の自分がいた過去を持ったまま接することができますか?と。

 

やる気が感情だとは、あまり感じません。やる気というのは、この苦労をすれば、将来きっと楽になる、きっと良いことがある、という推測に基づいた計算です。ようするに理屈というか、論理なのです

やる気が理論。

うなりました。

 

ということは、とある塾のキャッチコピーである"やる気スイッチ"は、決してスイッチではなく、子供が打算的に勉強に取り組むかどうかの話なのだろう。

小学生で言えば「ここでがんばって大学までエスカレーターの学校に入ってしまえば向こう10年間ぐらいは楽ができる」と気付けるかどうかにかかっている。

 

とにかく大事なことは、やる気ではなく、やるかやらないかなのです。そして、やるために必要なものは、計画です。

森博嗣先生の言葉だったか忘れたけど、「やる気がなくてもやりだせばやろうと思う」という言葉があって、ああ、なるほどなぁと思ったのを思い出した。

 

よく私も仕事でやる気が起きないと隣の後輩に愚痴をこぼしているが、やる気が起きないのではなく、ただやろうとしてないだけだった。やる気なんて関係ない。

 

計画という言葉が出たので、私の仕事の仕方を書いておく。

基本的には、4月に1年間のおおまかなスケジュールをもらい、そこから中期短期の目標が定められている。

組織目標や個人目標だ。

また、この1年間のスケジュールの上位には、ある仕事をするための大元となる計画が存在している。なぜ、この仕事をしなければいけないのかというのを明確に定めたものだ。

正直、もう決まったことでやる気など関係ない。

さて、そのスケジュールをもとに私自身は、仕事に優先順位と労力を割り当てる。

まず、優先順位。

上位計画の目標と目的をピンポイントで達成する仕事かどうかという判断だ。

次に、労力。

自分の作業スピード、実力、知識をもとに割り当てられた仕事がどれぐらいの期間が必要かという判断。

どちらも当然やる気のバロメーターは入ってこないことがわかるだろう。

 

この2つを並べると自ずと年間のスケジュールに対する力の入れどころがわかってくる。後は、中期短期の目標に対して、強弱をつけて日々取り組むだけだ。

基本的に単純作業は最後。もうにも考えなくて良いのでただ作業をする。

計画を立てて、課題を解消できる道筋が見えたらもうその仕事は終わったも同然だ。

 

 

人間不要の時代

人間は本来面倒くさい生き物だったはずである。話が通じず、我が侭で、好き勝手にする。子供を見ていれば、少しは思い出せるはずだ。子供は面倒なものだが、人間らしい。

人間らしさとはなんだろう。

言葉を発する事自体がもう人間しかしないことだし、僕らの行うことほぼすべて人間らしい行動なんだと思う。

 

人間は生まれてから死ぬまでの間に色んなことを知識として吸収して、少しずつ面倒くさくなってくる。

面倒くさいと思われる人間は往々にして、この世界の事を知りすぎている。

また、何な対して、誰に対して面倒くさいかというのもある。

私は面倒くさい人間だった。飲み会になれば熱く持論を展開し、恋愛、音楽、生き方、自分に揺るぎない思いをぶつけていたと思う。

それを面倒くさいと思わない人もいた。それは同じ熱量でぶつかってくれる人だ。

 

面倒くさいか面倒くさくないかは、受ける相手が同じ熱量、内容で話し合えるか感じ取れるかだと学生の頃から思っている。

いざ、学生の身分を失い、働いていると面倒くさい人がこの世には多すぎると感じている。よくもまあこんなやり方で今まで生きてこられたものだと思う。

それはきっと多くの人が、面倒くさいを諦められて放り投げられて無視をされてきたからだと思う。だれもそれに対して面倒くさいとも言わない。それはとても悲しいけど、これができないと生きにくい。

 

習慣を変える

自己主張というのは、自分の意見を述べることだ。自分の願望を述べることではない。何が正しいと考えるか、というのが意見である。どうなってほしいのかではない。

最後だ。

自分の意見を述べるということが願望ではなく、正しさを主張することだとこの本では言っている。

なるほど。

では、提案はどうなのだろう。自分の意見で相手に対してこうするのはどうか?ということを伝えているわけだが、正しいのはこっちだよと言っている場合もあるし、自分の願望に寄せたいからという場合もあるだろう。

 

昔、まだ若手の頃、「君はどうしたいの?」と聞かれることがよくあって、すぐに答えられないぐらい使えない人間だった。

君はどうしたい?って、私の意見が通るならば主張している。色んな法律があって、色んな決め事があって、期限があって、相手があって、それで進めている仕事が自分の意見に左右されるはずがないと思った。

ただ、今になって思うのは、あらゆる取り決めの中で、デティールには自由があることが多くあって、その中で君なら何が正しいと言える?と聞かれていたのだと最近は気づいた。

それならばきっと答えられた。

 

学生の頃にはあまりなかったが、働いてからは自己主張を履き違えている人がけっこう多い。

特に管理職。

私ならこうする、こうあるべき。

 

 

うーん、それはあなたがそうしたいだけですよね?上から言われてるんですか?そうであれば最初からそれを主張してください。

僕らも自己主張の剣を鞘に収めますから。

 

 

本のタイトルである「集中力はいらない」というのは、その言葉の意味のままではなく、“集中力という言葉や集中という状態は何も一つのことに向いているものではない。”ということなんだろう。

 

それにしても私が森博嗣に出会ったのは高校2年生の冬。

サッカー部を辞めて今後の進路を考えなくてはいけない時期だった。

すべてがFになるを読んで、その発想力に驚かされ、“理系”(今ではおかしな言葉だと思うけど)という響きに憧れた。論理的な思考がかっこいいと思ったし、知識があるというのはそれだけで役に立ちそうだと思ったからだ。

現在、作る人ではないけれど、日々工学的な視点で、街づくりに尽力している。たまには不毛な事務作業もあるけれど、いつだって多方面に目を向けて、あらゆることに集中を分散させていきたい。

そんかことを思って、書評を閉じさせていただきたい。