父とレアルマドリード
それはもう何年も前からわかっていたいつか来る現実であった。
覚悟していたはずの感情は、事実を聞いて、別れの日を目の前にして、覆い隠せるようなものではなかったと自分自身でも驚いた。
SNSでも勢いで想いを書いてしまった。
サッカーと彼の存在を結びつけたときに話ができて、理解してもらえる人がいなかったから。
少しだけお付き合いください。
現実と向き合う
父親が他界した。
父は約10年前"多系統萎縮症"という難病にかかり闘病を強いられ、そして長らく入院をしていた。
神経系の病気であり、治療法はなく、進行のスピードも個人差があるということで、長くて10年というのが一番最初に聞いた内容だった。
大学生(大学院生)だった当時の私は、自分のことでいっぱいいっぱいで、それでも突きつけられた現実に「どうすればいいんだろう」という疑問だけが漫然と浮かんでいた。
あれからあっという間に10年。
病気はしっかりと進行し、自宅のトイレで動けなくなり入院し、食べることができなくなり、声を出せなくなったが最後まで意識は残っていた。
最終的には癌により亡くなってしまったが、コロナによる面会禁止があったためどのような最期を迎えたかはわからない。
久しぶりに見たその顔は穏やかで、骨となる直前までただ眠っているような姿だったのは、目に焼きついてる。
さて、私とっての父親の存在は、サッカーというスポーツを見るようになったきっかけであり、思い返すとただの家族というだけではなかったということが今になってわかってきた。
こんなにサッカーを見るようになった一番初めは、ちょっとした父親とのきっかけであった。
前置きが長くなってしまったが、父親の生きていた証と私がしっかりと彼の子供であったことを、供養として書き留めていきたいと思う。
彼と私の繋がりにはサッカーというスポーツが密接に関係している。というよりほぼそれだ。
これから始まる自分語りは、私が初めて好きになったレアルマドリードに出会わせてくれた父親とそのレアルマドリード、そしてその先のサッカーと私の、ほんの数十年の物語である。
サッカーとの出会い
こんな見出しでありながらサッカーとの出会いに記憶はない。
例えばサッカースタジアムにサッカー観戦に連れていってもらったとか、父親がサッカーをやっていて生まれたときからボールを与えられていたとか、そんなことはまったくなかった。
ドーハの悲劇も初のワールドカップ出場ももはや記憶にはない。伝聞の類いだ。
しかし、小学校2年生にはサッカーというスポーツを始めていた。
おそらく近所の○○くんもサッカーをやるみたいだから一緒にやらない?と、これもおそらくだが、母親が勧めたんじゃないかと思っている。
なぜなら父親は学生時代のすべてを野球に注いできた人だからだ。
どうやら大学でも続けていたようで、キャッチャーとして大洋ホエールズから声がかかっていたとかなんとか。
「お父さんがプロになっていたらあんたたちは生まれてなかったよ!」というのが母親の唯一父親を誉めるときの言葉であった。きっと二人は出会っていなかったということだろう。
結局この決断は私の人生を大いに良い意味で狂わせ、今でもサッカーにどっぷりとはまっている。
どれだけ記憶をたどっても本当にサッカーを始めた理由は覚えていない。
家では毎日のように野球中継が流れ、ホームランを打つと父親の喜びの雄叫びが聞こえ、元キャッチャーの父親の配球予測が自慢げに語られていたのだ。
どうして野球ではなくサッカーなんだ…。
これは我が家の七不思議の一つだ。(七不思議と言ったが、もう不思議は出てこないので期待しないでほしい)
「だれも野球をやらねえんだよな」とよく愚痴をこぼしていたのも、彼が亡くなってから母親から聞いたぐらいだ。(私には弟たちがいるがだれも野球をしていない)
つまり両親の期待や心残りを押しつけられることなく、好きなことをやれたというのは、両親のおかげで、それは感謝でしかない。
かくして、長い長いサッカー人生が始まった。
プレイヤーの楽しさ
小学生で始めたサッカーに、私は大変熱を入れてしまった。
その当時に熱を入れていた感覚はまったくもってないのだが、それから高校2年生まで競技としてサッカーを続けていた。
勝つか負けるか、試合に出られるか出られないか。常に競争に身を置いていたと今では思う。
よくやっていたとも思う。
友達がみんなやっていたのもあったが、負けると悔しいし、勝つとうれしい。
コーチは怖いけど、優しくて面白いし、なによりがんばっていると父親も母親も応援をしてくれるのだ。
そんなことスポーツを始めるまでなかった経験だ。素晴らしいと思っていたのかもしれない。
といってもサッカーが上手かったわけではなかった。小学6年生まで試合中にボールを触るのも怖くて全然活躍できなくて、いつもチームメイトからやんや言われていた。
父親も怖かった。
走れ!がんばれ!追え!
試合が終わればあーだこーだ。
辞めなかったあのときの自分を抱きしめてやりたい。
まあ、今にして思えば心から応援してくれていたんだろう。
自分のサッカー人生に衝撃を与えた出来事があった。
それは中学のときに友達とサッカーボールで遊んでいたら、同年代ぐらいのブラジル人に一緒にやらないかと誘われたことだ。
向こうはポルトガル語、こっちは日本語ながらも、ボールを蹴りあったが、その技術力の高さに脱帽。
ボールは取れない、クイックネスがとてつもないし、フィジカルは強い。なんだか知らないが「世界」を勝手に感じた瞬間だった。
全然本題に入れない。
悪い癖である。
サッカーを観る体験
ようやくである。
サッカーをしっかりと見たのは2002年日韓ワールドカップ。
それまではコーチからサッカーを見ろよと言われても「なぜ見るのか」「自分と技術がまったく異なるものを見てなにになるのか」というところがわからなかった。当然、Jリーグはおろか日本代表の試合すらもテレビがついてるからとりあえず眺めている程度。
しかし、そんな状況が一変したのがこの日韓ワールドカップであった。
友達とだれかの家でキックオフ待つ間、点が入った瞬間、失点した瞬間。心が沸き立つのを感じた。
自分がプレーしていないのにどうしてこんな感情になるのか。
エキサイティングの塊じゃないか。
トルコに負けるそのときまでテレビに釘付けだった。日本が世界と戦ったあのときを。
ただ、だからといってそのあとサッカーの試合を観るようになったかと言えばまったくそんなことはなかった。
部活で疲れた体でプロの試合を見る肉体的余裕はない。
月日は簡単に流れていった。
相変わらずJリーグはそこまで見ていなかったが、ワールドカップになれば夜更かしをして友達と多くの試合を観戦していたことを思い出す。
レアルマドリードとの邂逅
2002年の日韓ワールドカップが終わって、私が高校生になったころなんと我が家にWOWOWが導入された。
2003年、2004年ごろの出来事だ。
WOWOWを契約したのはもちろん父親だが、野球中継は民放で見られるにも関わらずWOWOWを契約。
ここが本当に父親を尊敬するべきところだが、サッカーを観る楽しさに父親は私よりも早く気づいて、それを我々子供たちに伝えようとしてくれたのだ。(真相は闇のなかだが)
WOWOWが導入されたことで、我が家ではスペインリーグの試合を観られるようになった。
当時マンデイフットボールでしか海外サッカーの情報を得られなかった私にとって海外サッカーをフルで見られる感動は、、最初は感じていなかった。もったいない。
父親はだれに言われるでもなく、子供たちに自慢するでもなく、スペインリーグを観始めた。
深夜や朝方なので録画をして、休日の早朝から観ていた。
そう。ここで出会ったのがレアルマドリードである。
マンデイフットボールのおかげで当然、名前は知っていた。チャンピオンズリーグのロベカルからジダンのボレーも映像だけは見たことがあった。
当時のレアルマドリードはそれはそれは魅力的なスカッドだった。今考えると本当にとんでもない選手たちが揃っていた。銀河系軍団の活躍をこの目にできていたのは幸せだった。
(その前から知っていただろうという声も聞こえてきそうだがそこは脳内補正をしてほしい)
記憶が曖昧で気になって調べたがWOWOWでラリーガが放映され始めたのは2003年だった。記憶とほぼ一致したのでほっとした。
あのころのレアルマドリードが一番好きだった。クラッキばかりだったがだれも悪いやつがいなかった。サッカーに対して熱心で、プロとしての振る舞いも素晴らしかった。
デルボスケ、カルロスケイロス、カマーチョと続いた監督たちのレアルマドリードを応援していたことを思い出した。
ありがちだがモウリーニョのマドリーはあまり好きになれなかった。
今でも鮮明に思い出せる。
左SBだった私に感動を与えたロベカルの破壊力
PKがやたらと上手いイエロはCBの印象を変えてくれたし、エルゲラはCBもボランチもできる万能なプレイヤーだった
セルヒオ・ラモスが来るまでの右サイドはミチェルサルガドが、マドリーに魂を注入し、マケレレが銀河系のために体を張った
ベッカムのその右足は芸術そのものであったし、グティは天才でほれぼれとした
左サイドから中央に移動するジダンはエレガントそのもの、フィーゴのドリブルはフェイントができなくても渡り合える希望をもらえた
ラウールの動きは、自分のためではなく人のためにスペースを作ることを教えてくれ、怪物ロナウドは、体型はこのスポーツに関係なく、得点こそがすべてであると見せてくれた
どうでもいいことだが、好きなサッカー選手を聞かれたら、ジダンとクライフと答えるようにしている。
クラシコと父親
無理やりに父とレアルマドリードを関連づけようとしているが、関係はまったくない。
父が録画をしていたラリーガの試合は、バルサとマドリーの試合がほとんどだった。(時々、セビージャベティスや日本人所属チームの試合があった)
マジョルカに在籍していた大久保のデビュー戦ゴールをリアルタイムで見ていたのは今でも覚えている。
高校生になり、部活と勉強ばかりの日々になると父親との記憶はほぼこの朝方のラリーガの録画を観ていた記憶になる。およそ2006年ごろまでのことだ。
いかんせん積極的に会話をしない父親との会話は試合を見ながら感想をもらし、共感してもらうというパターンが常だった。
この中でクラシコという非常に重要な試合は外すことができない。
私の記憶の中では塩試合はなかったんじゃないかと思う。それは試合内容だけでなく、父との会話がしっかりとなされていたからなのかもしれないが。
良いプレーに感嘆し、今のが良かった。と言えば、ああ、とかそうだな、とか簡単な言葉が返ってくる。
見逃したところを巻き戻して二人で見たり、ラウールが二人引き付けていた、と話したところで、やはり、うん、とかああ、とかが返ってくるが、個人的にはわりと満足していた。
なにより野球しか見ていなかった父が、サッカーを観る時間の方が長くなっていたから、それはそれでサッカーを認められた気がして嬉しかったのかもしれない。
大学生になり、プライベートが変わっていき、一緒に試合を観ることが減っていた。
そして、在学中に父の病気が発症した。
病気が発症するまで、彼は一人でたくさんの試合を観ていたことだろう。
ジダンは引退し、レアルマドリードには新しい風が流れていた時代。
その変遷をラリーガを通じて観ていた父とサッカーについてもっと語り合いたかった。
やっぱり早すぎる。
そんなこと言ったって仕方ないのはわかっているけど、もっと長く生きる人がいるのになんで。
父が入院したあともクラシコはどんなに忙しくてもリアルタイムで観ていた。
それは結局唯一の父親との繋がり、記憶、思い出だったからで、観た試合をいつか話し合えるようにと些細な悪あがきだったかもしれない。
サッカーを観るということ
父が入院していた間は、話したいことがたくさんある。
この約10年の間にレアルマドリードがCLで三連覇したこと。
ジダンはマドリーで引退し、その後は指導者となり、ジダンはマドリーの監督になったこと。
シャルケに行ったラウールも下部組織のコーチをしていること。
バルサにいたグアルディオラはドイツへ渡り、今は私の応援するマンチェスターシティの監督をしていること。
中田英寿が旅人を続けていて、日本酒を作っているとは父親は考えもしていないだろう。
多くの日本人が欧州に渡ったこと。
乾や清武がラリーガに挑戦し、乾は今でもプレーしていること。
久保建英が日本に戻り、その後レアルマドリードに加入したこと。
久保のJリーグ最後のゴールを味スタで観戦していたこと。
ロシアワールドカップでベルギーをギリギリまで追い詰めたこと。
むしろベルギーが強豪国となっているなんてことも、きっと話したら驚いたに違いない。
試合の一つ一つ、サッカーに関係する事柄は記憶とリンクする。
WOWOWとラリーガは今でもこれからもきっと父とのことを思い出すことを助けてくれる。
最後の2年間はコロナの影響もあって病院での面会は禁止だった。
この2年間で会えたのは癌だと告げられた日ともう意識のなくなった日の2回だけだ。
その間にもすごい勢いで世界は変わり、いくらでも話のネタはあったはず。
それを伝えられないことはとても悲しい。
父親が定年退職し、自分が働き、二人でお酒を飲むようになってから、昔話をするようになるんじゃないのかな、と思っていた。
現実は残酷で昔話はおろか、お酒も一緒に飲むことなく、彼はこの世から去った。もう少し待ってくれてもいいじゃないかと今でも思っている。
湿っぽくなってしまった。
これで終わりにしよう。
父親と私はサッカーによって繋がっていた。
私がサッカーをしていたのを父親として観に来ていただけでなく、サッカーファンとしてWOWOWを通じたラリーガの世界の感動を共有していた。そこには親と子ではない関係があった気がする。
父のおかげでレアルマドリードを好きになり、サッカーが好きなだけでなく、特定のチームを応援することの楽しさを知った。
そして、レアルマドリードだけでなく、マンチェスターシティというチームを好きになった。
どこか好きなチームがあると楽しいということは父が教えてくれたとも言える。
今の私がいるのは紛れもなく彼のおかげだ。
そういえばまだゆっくりだがかろうじて喋れるときに、病室で最近の海外サッカーの話をしたことがあった。
返事は「ああ」だった。
なんだよ、今までと変わらないじゃないか。
このやりとりを思い出して今、泣いている。
これからもきっとサッカーは好きだろう。
マンチェスターシティやレアルマドリードの試合に一喜一憂し、サッカーに関係なく、自分の人生も変わっていくだろう。
子供にこれだけの影響を与えられる親に自分はなれるだろうか。
67歳というあまりにも早い最期は、思い出になるには少しだけ時間が短いように思える。
それでも安らかに。永遠に。
サッカーに焦点を当てたが、サッカー意外にも当然、さまざまな話があるのだが、ここでは割愛し、父と私とサッカーの思い出を語らせてもらった。
本人が良い人生だったと思えたかはわからないが、今、私が良い人生を過ごしているのは間違いなく彼のおかげである。
2021年6月2日